J:COM劇場 ふくおか偉人ものがたり
ラインナップ [一覧] 全30話
No.1「栄西禅師(えいさいぜんじ)」

私たちが日頃よく飲んでいる「お茶」。実はこの「お茶」は中国からやってきたのをご存じでしたか?このお茶を日本に伝えた人物こそ、今回ご紹介する「栄西禅師(えいさいぜんじ)」です。岡山県生まれの栄西は仏教をきわめるために中国へ渡ろうと博多へやってきました。福岡市西区今津に今も残る誓願寺。栄西はこの寺に8年間住み、中国へそしてインドへ渡る決意を固めたのです。日本最初の禅寺とされる博多の聖福寺は、1195年に栄西禅師が帰国して建立したお寺です。
No.2「追い続けた歌人 大隈言道」(おおくまことみち)

幕末の三大歌人の一人「大隈言道」。福岡の商家に生まれたが、39歳で家を弟にゆずって作歌に専心。60歳の年から12年大坂で過ごし、時の歌人と交遊した。ほぼ毎日100種の歌をつくり多くの歌を残すも生前には評価されず、死後100年を経てようやく世の中に知られるようになる。歌の用語の自由斬新さには特色があり、近代和歌の道を開いた先駆者として高く評価されている。
No.3「万葉歌人 山上憶良と大伴旅人 (やまのうえのおくらとおおとものたびと)」

今から約1300年前の奈良時代、大伴旅人は大宰帥(だざいのそち)として、山上憶良は筑前の国司(くにつかさ)として九州の大宰府に赴任してきました。あるとき、旅人は梅の花を楽しむ歌会を開きます。お酒好きだった旅人が華やかで軽快な歌を詠んだのに対し、家族を思う哀しい歌を詠んだ憶良。政治的な立場が違っていた二人は、相手に負けまいと歌で競い合いますが、晩年は互いに心を通わせるようになっていました。
No.4「東洋のアリストテレス 貝原益軒(かいばらえきけん)」

福岡藩のおかかえの学者。東洋のアリストテレスと言われた博覧強記の知識が重宝されてなかなか定年退職をさせてもらえなかった。70歳にしてやっと藩づとめを辞し、以後猛烈な著作活動を開始、著書270冊を残す。22歳年下の東軒夫人との愛情物語は美しい。
No.5「偉大な政治家 金子堅太郎(かねこけんたろう)」

明治4年、若干18歳にして渡米しハーバード大学に学んだ金子堅太郎は、後に日本の初代総理大臣伊藤博文の側近として、明治憲法の起草に参画しました。在米中はグラハム・ベルの研究所を訪れ電話の実験に参加し、日本人としてはじめて電話でしゃべったとか。また、修猷館の再興などに関わり地元の発展にも功績を残しています。
No.6「博多の豪商 宗室と宗湛(そうしつとそうたん)」

商人の町として知られる博多には、かつて「豪商(ごうしょう)」と呼ばれる大商人がいました。中でも有名なのが「博多三傑」にも数えられる嶋井宗室と神屋宗湛です。二人は茶人としての名声も高く「茶の湯」を通じ大名たちと交流を深め、時の天下人豊臣秀吉からもかわいがられていました。戦乱で焦土と化した博多の町でしたが、秀吉の命を受けて町の復興に尽力した宗室と宗湛。そのときの町割りが現在も博多の町を形作っています。
No.7「自由人学者 亀井南冥(かめいなんめい)」

天明4年1792年、福岡に東西二つの学問所が誕生しました。東の修猷館、西の甘棠館(かんとうかん)です。甘棠館の校長に任命された亀井南冥は豪快な性格で、学生達は身分を問わず、自由放任、個性を尊重し福岡武士に大きな影響を残しました。学深く才たけた南冥は、志賀島で発見された金印を「漢委奴国王印」と断じ今日に大きな功績を残しましたが、晩年、自由な気風で人気を博した西学問所と亀井南冥に、波乱万丈のドラマが待っていました。
No.8「町人芸人 川上音二郎(かわかみおとじろう)」

元祖博多タレントといえばおなじみの川上音二郎。14歳で家を飛び出し上京、職を転々とした後、明治20年代、陣羽織を着てハチマキを締め、手には日の丸の軍扇を持ち、袴をはいた出で立ちで唄ったオッペケペー節が一斉を風靡しました。その勢いに乗って立ち上げた劇団では、時代にマッチした現代劇が次々と大ヒットを飛ばし、活躍の舞台は国内にとどまらず世界に広がります。
妻は日本の女優第一号川上貞奴。墓は博多山笠で知られる承天寺にあります。
No.9「四つの船で海を渡った 空海と最澄(くうかいとさいちょう)」

西暦804年、「四つの船(=遣唐使船)」に乗って博多の津より唐(中国)へ渡ったお坊さんたちがいました。「お大師さん」で広く親しまれている弘法大師「空海」(こうぼうたいし・くうかい)と伝教大師「最澄」(でんきょうたいし・さいちょう)です。決死の覚悟で中国へ渡り、無事に仏教の勉強を終えた二人は帰国し、まず福岡でお寺を開きました。それが博多区にある東長寺と古賀市にある独鈷寺(とっこじ)です。全国に数多く残る空海と最澄の伝説が福岡にもたくさん残っています。
No.10「福岡城を作った 黒田如水と長政(くろだじょすいとながまさ)」

桜の名所として市民に広く親しまれている舞鶴公園。そのシンボルといえば福岡城跡です。福岡城は 慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけ黒田如水とその息子長政が築いた城で、別名舞鶴城と言われていました。福岡城には天守閣がなく、そのため幕府にも睨まれることなく明治時代まで安泰であったといいます。今回は、戦国時代、策士として有名な武将であった黒田如水と、その息子で福岡藩初代藩主の黒田長政をご紹介します。
No.11「日本の洋画を創造した 児島善三郎(こじまぜんざぶろう)」

善三郎は「日本人の油絵」を終生貫き通した福岡市出身の洋画家です。幼少の頃は修猷館で学び、のちの日本洋画壇の重鎮・中村研一らと共にパレット会を創立して絵画の制作に励みました。しかし家出同然で上京、独学で渡仏し、エコール・ド・パリの影響をうけながらも、桃山時代の障屏画、琳派、南画など日本の伝統絵画の造形を油彩画の中に採り入れ、豪放華麗で細部にとらわれない独自の様式を確立しました。
No.12「博多人形 二人の名人 中ノ子タミと小島与一(なかのこたみとこじまよいち)」

「博多へ来るときゃ一人で来たが、帰りゃ人形と二人連れ」と民謡 正調博多節で歌われるように、博多の土産品としてよくしられる博多人形。その歴史は、今から約400年前の江戸時代、福岡城の建設で城のかわらを作っていた職人が、その粘土を使って人形をつくったことに始まったといわれています。今回は、博多生まれの博多人形師、1966年に福岡無形文化財に選ばれた二人の名人をご紹介します。
No.13「中国大陸の文化を運んだ 謝国明(しゃこくめい)」

今から約800年前の鎌倉時代、博多を拠点に宋(中国)との貿易で活躍した人物がいました。中国人商人、謝国明(しゃこくめい)です。彼は貿易で築いた莫大な富で、博多に承天寺(じょうてんじ)を創建し、宋から帰国した聖一国師(しょういちこくし)を迎え開山しました。また、うどんや蕎麦を日本にもたらした食文化の恩人でもあります。博多の町と人を愛した謝国明のお墓は承天寺近くに今も残り、「大楠様」と呼ばれ町の人々に慕われています。
No.14「山笠を生んだお坊さん 聖一国師(しょういちこくし)」

「オイサ!オイサ!」の掛け声で博多に夏の訪れを告げる風物詩「博多祇園山笠」。聖一国師はこの博多祇園山笠の創始者として知られる有名なお坊さんです。国師さまは30代の頃に中国へ留学し、帰国後博多で承天寺を開山しました。ある年の夏、博多の町に疫病が流行り、多くの人が命を失います。「このままでは博多の町には人がいなくなってしまう。なんとかしなければ・・・。」疫病をおさめるために国師さまは何をしたのでしょうか?山笠の始まりといわれるエピソードをご紹介します。
No.15「しいのみ学園を開いた
」

昭和29年、福岡市で、日本で初めて知的障害児童学校「しいのみ学園」を設立した
。彼は脳性小児麻痺の障害をもつ二人の息子の父親でもあったのです。その頃の日本は養護学校が1校もない時代でしたが、私財を投じて学園設立に至るまでの夫人と共に歩んだ道のり、教育の効果等をまとめた本がベストセラーになり、映画化にもなりました。障害者教育の第一人者であり、100歳を迎えた現在も現役で、元気に学園の園長をつとめているスーパーおじいさんです!
No.16「電力の鬼と呼ばれた男 松永安左エ門(まつながやすざえもん)」

明治43年(1910年)、福岡市で初めて電車を走らせたのが、のちに「電力の鬼」と称される松永安左エ門です。当時電力は最大の産業とされていた時代で、安左エ門は「より安く、より多くの電力を大衆に供給しよう」と電気事業に携わります。やがて東邦電力という電力会社を設立、業界の実力者としての地位を固めますが、時代は第二次世界大戦へ突入。電力事業は国に没収され安左エ門は業界を引退してしまいます。しかし戦後の電力再編成において、「電力の鬼」は再び甦ったのです。
No.17「悲運の学者 菅原道真(すがわらみちざね)」

ご存じ学問の神様。平安の昔に身分の低い学者の生まれながら、政治家として右大臣の位まで登った天才的学者です。しかし異例の出世が多くの反感をかい、藤原時平の讒言にあい大宰府へ左遷され、様々な苦難から悲運の最期を迎えたのです。また、太宰府天満宮の菅原道真にまつわる伝説「飛び梅」や「梅ヶ枝餅」の意外な由来、そして博多に残る「天神の水鏡天満宮」の歴史など、道真の軌跡を追いながらご紹介します。
No.18「楽しい絵をたくさん残した
」

「○△□」の絵をはじめユーモラスな禅画で知られる江戸時代の有名なお坊さん「仙
さん」は、39歳の時、博多の聖福寺に123代の住職として招かれました。聖福寺の前には仙
さんの描く絵が欲しいといつも行列ができるほどの人気者でした。さて、仙
さんはある物を持ってきた人には早く絵を描いてあげていたらしいのですが、そのある物とは一体何でしょう?今回は、仙
さんの研究者として知られる福岡市博物館の中山さんにお話を伺いながら、仙
さんの楽しい絵をご紹介します。
No.19「にんじん畑のおばばさん 高場乱(たかばおさむ)」

博多駅前にある人参公園をご存じですか?そこはかつて人参畑で「人参畑塾(正式には興志塾・こうしじゅく)という塾があり、有名なおばばさんがいました。その人の名は高場乱(たかばおさむ)、生涯男装を貫いた女性です。塾生たちは他では入塾を断られるようなあらくれものが多かったのですが、乱はそんな若者たちを深い愛情を持って指導しました。後に、塾の卒業生の中から玄洋社という政治団体が生まれたことから、乱は「玄洋社の生みの親」とも呼ばれています。
No.20「心臓のヒミツを解いた 田原淳(たわらすなお)博士」

心臓の鼓動はどうやって動くのか…この謎を解いたのは、大正・昭和初期の病理学者、田原淳博士でした。昔から世界中が心臓の研究で様々な説が飛び交う中、彼は哺乳類の心臓筋肉について研究し、特殊な心臓の仕組みを発見します。それが、現在の心臓学や臨床研究の発展の礎となっているとのことです。
No.21「福岡の百貨店 生みの親」 中牟田喜兵衛(なかむたきへえ)」

九州一の繁華街といわれる福岡市天神。しかし、かつての天神は、にぎやかな町並みと違い田畑のひろがる静かな地域でした。当時、繁華街といえば博多部のことで、初代中牟田喜兵衛も博多麹屋町で岩田屋呉服店を営んでいました。ところが、二代目中牟田喜兵衛は「今にきっと博多の賑わいは天神にもやってくる」と周囲の反対を押し切って、天神の渡辺通り沿いに岩田屋百貨店を創業しました。1936年(昭和11年)のことです。今回は、天神の夜明けをつくった中牟田喜兵衛を紹介します。
No.22「筑前琵琶を伝える中村旭園ものがたり (なかむらきょくえん)」

「筑前琵琶」は明治時代の中頃に博多で生まれた近代的な芸能琵琶。優雅で華麗な曲調が特色で、大正から昭和初期にかけて全国で大流行しました。戦前、旭園さんが育った櫛田神社の近くは、琵琶の町といわれ琵琶作りや琵琶の先生が多く住んでいて、町の至る所から琵琶の音色が聞こえてきたそうです。幼いときから筑前琵琶に親しみ研鑽を積んだ旭園さんは、現在国内はもとより海外各地で公演し絶賛を浴びています。若いお弟子さんたちの育成に励み、筑前琵琶の新時代を拓こうとする旭園さんの活躍ぶりを紹介します。
No.23「志士たちの母 野村望東尼(のむらぼうとうに)」

幕末の動乱期に勤王の志士たちが母のように慕う女性がいました。女流歌人 野村望東尼です。彼女は夫と共に平尾村の素朴な山荘に隠棲、和歌を詠んで暮していました。今も残る平尾山荘は、そのゆかりの地です。夫の死後、尼僧となった望東尼は幕末の時代に強い憂国の情を抱くようになります。次第に平尾山荘は静かな歌会の場から志士の隠れ家へと変貌していきました。そしてついに望東尼も姫島の牢獄に幽閉されてしまうのです。
No.24「幕末の志士 平野国臣(ひらのくにおみ)」

文学者、歌人、国学者、そして尊王討幕を唱えた志士・平野国臣。その半生を国事に捧げた国臣は福岡藩に仕える身分の低い足軽の次男として生れました。大きく変動する時代の流れに触発され、尊王攘夷運動に身を投じます。さらに1858年(安政5)に脱藩し上京。京都から九州間を従来する中で、野村望東尼や西郷隆盛との親交もあり、積極的に国事運動の活動を始めます。しかし晩年、幕末を炎のように駆け巡る国臣に悲劇の死が待っていました。
No.25「福岡が生んだ総理大臣 広田弘毅(ひろたこうき)」

福岡市中央区天神にある水鏡天満宮の鳥居には、強くて凛々しい文字でかかれた扁額がかけられています。これは明治の中頃、福岡市鍛冶屋町にあった石屋の息子で当時小学生が書いたものだといわれています。この少年こそ、後に総理大臣となる広田弘毅少年です。幼い頃から賢かった広田少年は修猷館を卒業後上京。浩浩居(こうこうきょ)という学生寮で、生涯無二の親友、平田青年と共同生活をはじめます。東大を経て晴れて外交官となった広田青年と、彼を支え、よきライバルでもあった盟友平田青年との友情を描きます。
No.26「博多の図案屋 西島伊三雄(にしじまいさお)」

変わり行く季節、なつかしい風景、やさしく温かい情景を描き続けた西島伊三雄さん。子供の頃から根っからの博多っ子だった彼は、昭和22年、「ニシジマ図案屋」を24歳でグラフィックデザイナーとして立ち上げました。九州各地を描いた観光ポスターや世界観光ポスターはコンクールなどで次々と受賞し、その後、福岡地下鉄のマークも製作しました。博多の歴史や文化を愛し、古きよき時代の風物を描き続けた軌跡を追います。
No.27「民謡「黒田節」のモデルとなった福岡藩士 母里太兵衛(ぼりたへえ)」

JR博多駅前と西公園の光雲神社内に堂々と佇む黒田武士の銅像。黒田八虎の一人に数えられ、後藤又兵衛とともに黒田長政の二大家臣の武士・母里太兵衛をモデルにしてあります。福岡でおなじみの黒田節「酒はのめのめ飲むならば…」は、太兵衛が大杯の酒を飲み、天下の名槍「大槍日本号」を豪傑酒豪の福島正則から得て持ち帰った逸話から生まれました。今日の福岡人の手本として黒田節とともに愛されています。
No.28「大正時代に国産自動車を作った 矢野倖一(やのこういち)」

福岡市博物館の常設展示の一角に、銀色に輝くアルミボディの1台の車があります。その車の名は「アロー号」。現在でも現物が確認できるという意味では日本最古の国産車です。大正時代のはじめ、製作者である矢野倖一は、水筒のアルミでボディーを作るなどして苦心し、時速50キロで走る自作自動車を完成させることができました。24歳の時だったそうです。その倖一は、のちに特殊車の技術発明が認められ、矢野オート工場(現、(株)矢野特殊自動車)を設立し、 ダンプボディーなど特殊自動車の製作に乗り出したのでした。
No.29「「怪物」と呼ばれた作家 夢野久作(ゆめのきゅうさく)」

日本の探偵小説三大奇書の一つに数えられる「ドグラ・マグラ」をはじめ、怪奇的で幻想的な作風で名高い探偵怪奇作家、夢野久作。本名は杉山泰道。文学少年だった久作は、修猷館中学(現、修猷館高校)を卒業後、軍人、農家、お坊さん、新聞記者…と様々な人生経験を積み作家としてデビュー。人間の異常・狂気・神秘の世界を探求し、大正時代に一線を画す作家として活躍しました。
No.30「大森治豊(おおもりはるとよ)」

九州大学医学部のキャンパスに大きくそびえ建つ銅像があります。大森治豊の像です。明治12年、東京大学医学部を卒業した治豊は、翌年福岡医学校の教授として福岡へやってきました。明治18年、婦人科医池田陽一とともに帝王切開手術に成功するなど、内臓外科分野を開拓。同36年京都帝大福岡医科大学(現九大)の設立のとき、初代学長兼付属医院長に任ぜられ、現在の九州大学の基礎を築いた「九大の父」と称すべき人物です。




